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歴史探訪シリーズ#2  外房・伝説の大富豪に迫る!

歴史探訪シリーズ#2  外房・伝説の大富豪に迫る!

今回、最強説をとなえるのは🇨🇳中国・🇹🇼台湾の国父、革命家の孫文(そんぶん)先生でござる。

孫文は日本が好きで長崎・神戸・横浜・東京を行き来しましたが、実は外房にもよくお越し頂きました。

千葉県いすみ市の隠れた景勝地「 日在海岸( ひありかいがん)」です。

「日在(ひあり)」の由来は陽(日)が長く、いつまでも暮れずに(在)るからで、夕景の一番ロマンチックな時間、いわゆるマジックアワーが長く続く素敵❤️な海岸です。まさに外房で”ピカいち“のロケーションで、プロポーズだって大成功間違いなし!外房にきたら是非、夕涼みに「日在海岸」で黄昏(たそがれ)て頂きたいと思います。そして、その「日在海岸」のほとりには、かつて伝説の大富豪の別荘がありました。孫文の時代から1世紀が過ぎ、今どうなっているのでしょうか😕?

それでは歴史探訪、外房に伝わる最強伝説と、孫文も黄昏れた美しい「日在海岸」へ、ご案内するでござるー♪

このシリーズの前回、「織田信長公がとなえた上総(かずさ)最強説」では、JR外房線「上総一ノ宮駅」からスタートしましたが、そこから普通電車に乗り換えて、南へ4つ駅を進むと「三門(みかど)」(千葉県いすみ市)という鄙びた駅につきます。今回はこちら「三門駅」〜「最強伝説の別荘跡」〜「日在(ひあり)海岸」の流れで、夕涼みのお散歩コースとして歴史探訪します。

外房の最強伝説!アジア最強大富豪の別荘跡を訪ねて

早速、今回の最強説。結論から申しますと、明治〜昭和初期 にかけて、激動の時代に暗躍した大富豪が、「日在海岸 」に15000坪の別荘を構えていたそうで、実はそこは中国革命の父・孫文(そんぶん)が日本亡命中に匿ってもらった” アジト ” だった!  というスケールの大きなお話です。

明治末 〜 昭和初期にかけて外房一帯は、多くの著名人が訪れる避暑地として大人気だったそうです。この辺りの海沿いは、確かに冬は温暖で夏は涼しい。特に 勝浦 〜 御宿(おんじゅく) は地形・風土の要因で、都内と比べるとかなり涼しい。実際、勝浦ではこれまで、一度も35度以上の猛暑日を記録したことがないそうで、「日陰だと軽井沢よりこっちの方が涼しいぞ」と、ニュース番組でも報道されていました。

そんなわけで「日在海岸」も然り、夏の夕暮れに散歩すれば、陽は長くて人気も少なし。昼間日焼けした肌を、涼やかな風が気持ちよ〜く冷やして、思わず黄昏(たそがれ)てしまう海岸です。

「三門駅」からその「日在海岸」への道中、手前味噌で御座いますが、狙ったようにちょ〜ど良い場所に弊社の民泊施設「CEDAR FOREST」がございまして・・・、弊社「ピカいち」でリフォームした戸建てのタイプ。

北に向かえば、目と鼻の先に大きなスーパーや100均のダイソー、産地直売所など食料・日用品が揃う。南へ向かえば大きなホームセンターもあって便利です。「ほぐしや」「鍼灸・整骨院」もあり、ワーケーションや家族で長期滞在に最適なんです。どうぞよろしくお願いします。

日在海岸まで1キロぐらいなので、道が平坦ですし、歩きでブラブラ寄り道しながら出かけてください。旧街道より海側は、古いお屋敷や面白いデザインの建物(移住者が多いので)が発見できて楽しいですよ。

外房・伝説の大金持ち「 梅屋庄吉(うめや しょうきち) 」最強説

 さて、「CEDAR FOREST」から国道128号線を渡り、東へまっすぐ伸びた路地をどん突きまで進むと、正面に現れるのは鬱蒼と木々が生い茂る中、「梅屋別荘跡地」と刻まれた角の石碑。

その家の主こそがアジア最強!! 外房では伝説となっている大金持ち💰 梅屋庄吉(うめや しょうきち)さん。1916年 (大正5年)、庄吉さん47歳の時に敷地15,000坪の別荘をここに建てました。

犬養毅(いぬかいつよし)や頭山満(とうやまみつる)など、教科書に載るような政財界の大物、文化人たちが出入りしていたといいます。ちなみに、ご近所には文豪・森鴎外や、講談社を創業した「雑誌王」、野間清治の別荘があったらしい。しかも森鴎外とはお隣りさんだったとか。 

石碑は平成になってから地元の不動産会社が跡地の開拓にあたり、庄吉さんの功績を遺したもの。さらにその奥には、「庄吉さん愛用の井戸」も遺してくれていますが、茂みに隠れて撮れませんでした。

華麗なる人脈を持つ庄吉さんですが、ネットで調べてみると「 孫文の支援者で映画会社 日活の創業者の1人  」とありました。まあ正直、私もいすみ市に住むまで聞いたことがなかった人物。しかし、この方がいなければ辛亥革命は無かったと、孫文が断言しています。

🤑梅屋庄吉さんが孫文に渡したお金は1兆〜2兆円 !!!🤑

庄吉さんから孫文さんに渡ったお金の総額は、現在の価値で1兆円💰とも2兆円💰💰とも言われてます。

い…1兆円て!!! 一体どのぐらいなのでしょうか!? 

それは毎日1億円使っても27年かかるという莫大な金額。「 毎日1億円 」の段階で見当がつかないが、とにかく一世紀前のアジアに、清朝をぶっ倒すほどの莫大なお金を動かせた民間人が他にいたでしょうか?  資金調達力と気前の良さは ”アジア最強”か、いや ”東洋一”だったかもしれないと、感じざるを得ません!

梅屋庄吉 と 孫文 

2人のタッグで清朝滅亡させてめでたしめでたしですが、残念なことに孫文さんが🇨🇳中国・🇹🇼台湾でうやうやしく祀られる一方で、庄吉さんは戦後の日本ではあまり語られる場がなかった。「アジア主義者」のレッテルで歴史に葬られたと言えば大げさですが、いつの時代であれ、革命の支援者なんて体制側からすれば厄介者。そりゃまあそうですよね、教科書ではタブーですよね😅 

今でこそ、孫文さんと庄吉さんが一緒に写った写真は、ネット上にたくさん残されていますが、2人の関係が世に出たのは1972年の日中国交正常化以降のことでした。それまでは孫文さんが日本亡命中、外房の日在に隠れていたなんて、都市伝説にすぎなかったのでしょう。

日在の「ラグーン」を借景にした1万5千坪の別荘の裏側

石碑があった場所から敷地の裏側に回ってみると、目の前にラグーンが広がっています。その向こう側の砂州のところにサイクリング道が走っていて、道に沿って松の木立が点々と見える。遠くには太平洋に向かってせり出す太東崎がダイヤモンドヘットみたいに見える。さすが庄吉さん、これだけのロケーションはなかなか他にないと思う。是非みなさまにも肉眼でご覧いただきたいです。

ちなみに上写真のヤシの木が並ぶ先は、「江場土グラウンド」という芝生のグラウンドがありまして、開けていて抜けが気持ちがいいので、日避けも何もないですが、私はここでひと休憩しました。

香港で出会ったイケメンリーダー・ 孫文 と やり手実業家・梅屋庄吉

ここで改めて2人の出自を整理します。

★梅屋庄吉(1869-1934年)

庄吉さんは、明治元年生まれ。日本の夜明けとともに開国で賑やかだった長崎で育ち、早くから海外の文化や情勢に興味津々の庄吉さんは、14歳の時に親に内緒で船に忍び込み、上海へ渡ったそうです。その後はアジア諸国を転々としますが、先見の明とバイタリティ溢れる行動力で、二十歳を迎える前には香港で、当時のハイテク産業だった写真館を経営していたそうです。

★孫文(1866-1925年)

孫文さんは庄吉さんの2つ年上で、清国・広東省の貧しい農家に生まれたというが、どういうわけか12歳でハワイに渡り、ホノルルの大学まで卒業している。客家(はっか)出身の華僑とも言われていますが、まあ納得ですよね。その後、香港の大学で医学を学び、医者をしていた。

 1895年、そんな2人が日清戦争直後ぐらいに香港で出会います。そのとき庄吉27歳、孫文29歳。当時の孫文は革命前ということで、まだ漫画「ラーメンマン」のような弁髪(べんぱつ)姿だったそうです。弁髪時代の孫文17歳の写真をネットで見ましたが、目はキラキラとして生気に満ち溢れ、BTSレベルのイケメンで、やはりオーラがあるというか、すでに面構えがリーダー感を醸し出していた。庄吉さんは、そんな孫文の革命にかける情熱に感銘を受け、

「君は兵を挙げたまえ、我は財を挙げて支援する」と盟約を結び、2人は生涯、その誓いを貫きしました。

三菱の岩崎彌太郎から直々に「リアル龍馬伝」を聞いていた庄吉さん

 孫文はハワイの歴史をよく知っていたし、庄吉さんもアジア各地で欧米列強に支配されるひどい実情を目の当たりにしてきた。出会ったその日、アジアの未来を憂いでいた2人はペラペラの英語で、時を忘れて天下国家を熱く語ったらしい。

孫文「日本人と中国人がタッグ組まないと、ハワイみたいにアメリカにやられるんじゃない?」

庄吉「ロシアにも狙われてるけん、早く清朝ぶっ倒して、アジアで一致団結しましょ」

と、私の妄想で2人の会話を再現してみて、ふと気付いたんですが、この辺のタッグを組む経緯、坂本龍馬の薩長同盟の倒幕のエピソードと何か似てませんか?

調べるとそれもそのはず、庄吉さんの幼少期にその秘密を発見しました。庄吉さんの祖父は、長崎と上海の貿易商の草分け的な人で、後に三菱財閥を築く岩崎彌太郎(1835〜85年)が、長崎で土佐商会の番頭さんをしていた時代、梅屋家の借家に住んでいたということらしい。岩崎彌太郎さんが幼い庄吉を背負い、毎日のように遊んでくれていたと記録がある。ということは、龍馬と同級生だった彌太郎さんから直々に脚色なしの本当のお話、「リアル龍馬伝」を聞いていたと思われます。そして・・・、しかも長崎には有名なグラバー邸がある。グラバー邸と言えば「都市伝説」で有名な秘密結社の話になる。

坂本龍馬の「志」を継ぐ梅屋庄吉さん 

今度は登場人物の関係性を整理します。

★トーマス・グラバー(1838 – 1911年)

英国・スコットランド出身の武器商人ということで、「明治維新の黒幕」と都市伝説ではよく噂される。

1859年に 香港を拠点 にするジャージン・マセソン商会の代理人 として 長崎 に着任。このとき弱冠21歳で、 龍馬と彌太郎 の2歳年下でした。それから40年近く長崎で暮らし、

1897年に日本人の妻ツルと共に東京へ転居して、三菱の顧問としての余生を送った。

1908年には、明治政府から外国人として初めての勲章(勲二等旭日重光章)が授与されている。

 ということで、キーワードを紐解けば、何だかつながりが透けて見えました。龍馬フリーメーソン説 は「Mr.都市伝説」の関暁夫さんに譲るとしまして、長崎・香港・イギリスには深〜い秘密の人脈が確かにあると。庄吉さんが生まれる2年前に龍馬は暗殺されていますが、実は京都・近江屋で殺されたのは影武者で、本物は英国・スコットランドに落ち延びたという面白い説もある。2人が出会ったのもイギリス統治下の香港であり、2人をつないだのはイギリス人(医師ジェームス・カントリー)だったという記録も残っている。

その辺りは裏歴史が垣間見られて興味深いところですが、庄吉さんにとって「龍馬」は、生き様を語るただの憧れではなかったんだと思う。社会システムを変えるには、清濁併せ呑む器も必要ということで、もっとリアルな革命のモデルとして見ていた。

「アジアを洗濯したく申し候」と言ったかどうか知らないが、その大きな「志」の根っこは同じで、幼少期から聞いていた「リアル龍馬」が庄吉さんのバイブルだったんじゃないでしょうか〜🧐

 庄吉さん自身、何度もお尋ね者となってしまい、危ない橋を渡っている。香港の写真館が反乱軍のアジトの疑いで密告されてギリギリでシンガポールに逃げたり、大日本帝国時代には憲兵に逮捕もされています。それでも龍馬のように怯まずに信念を貫きました。2人が香港で出会い、タッグを組んでから16年後。辛亥革命を巻き起こし、2千年以上続いた中国の専制政治が幕を閉じます。

こう考えると、もし生きていたら、孫文先生が説くアジア最強説は梅屋庄吉さんだろうと、感じざるをえません。

孫文の日本亡命生活 たそがれの日在海岸で何思う?

 梅屋別荘跡地の石碑のところまで戻りまして、いよいよ「日在海岸」へと向かいます。石碑を正面に見て右側に小道が伸びておりますので、真っすぐ一本道を進むだけです。

途中、アスファルトが途切れ、藪のトンネルを抜けます。足元、歩くごとに脇の草むらから何やらガサガサと騒がしので目を凝らすと、大きめのカニが「まっくろくろすけ」みたいに蜘蛛の子を散らすように必死で逃げてく。

ちょっと開けたところに出てきたら、梅屋邸裏から見た「日在のラグーン」が 遥か先まで続いて見えて、そこが江戸時代まで川だったというのがよく分かります。知らない野鳥が羽を休めておりました。遠くに目をやるとボラか何かの魚がパシャ〜と跳ねて「花鳥風月」の世界でございます。とにかく子供の頃からイケイケだった庄吉さんですが、40代でここに別荘を建て、晩年、まさに「人生の黄昏」は、ここで「花鳥風月」の自然豊かな景色を愛して暮らしましたとさ。

で、さらに進んで砂州の小高い丘を越えると、やっと出ました「日在海岸」です

ちなみに孫文がここによく来ていたのは辛亥革命(1911-1912年)の後、いろいろあって再び追われる身となって日本亡命していたころのこと。庄吉さんの別荘では、孫文さんを含めた秘密の会談がたびたび行われたそうで、実は、孫文のお弟子さんで台湾初代総統・蒋介石も石碑が近所に遺されてあるのですが、庄吉さんはこの時期から蒋介石とも親交が深かったようです。

孫文は長崎、神戸、横浜、東京、ハワイ、アメリカの都市など、いろんなアジトを転々としつつも、

1915年に最後の奥さんの宋慶齢(そうけいれい)と結婚します。ちなみにそのキューピット役は庄吉さんの奥さんのトクさんで、披露宴は東京の梅屋邸で行われたという。

1916年に日在海岸のほとりのこの別荘を建てているので、孫文がよく来てた時期は、26歳年下の才色兼備、宋慶齢と新婚ホヤホヤだった時期というのが分かります。2人してこの景色、さぞかし黄昏れたのではないでしょうか〜 🌄

伝説の大富豪 梅屋庄吉 人生のたそがれに日在海岸で何思う?

公のために志を持ち、常に誰かを助けて応援してた庄吉さん。人生の黄昏に、何を思ったのか、是非お会いしてみたかった。日活で現像技師として働いていた人が、こんなふうに証言していました。

「とにかく梅屋さんは偉い人やった。お金、自分に残さないで全部寄付しちゃうんです」

当時、日当5円で住み込みで働いていたそうですが、撮影所にも自宅にも居候がいっぱいいたらしいです。別荘跡の近くに、昔、日活の保養所だったというお屋敷 (「日活荘」→現在「三門荘」)があるのですが、そこにも人を住まわせたり、仕事を紹介したり、常に誰かのお世話していたそうです。それでもって、蒋介石とその奥さんの宋美齢(宋慶齢の妹)の結婚も、橋渡しをしたのは庄吉さんだったそうです。お金の世話して、奥さんも世話して、一体どれだけお世話するのか…   

そんな偉人のお世話をしまくった偉人、梅屋庄吉が愛した“たそがれの日在海岸”。

私も夏至近くの6月18日、日没直後の夜7時ジャスト、マジックアワーに黄昏れに行って参りました。

そんな「たそがれの日在海岸」にお越しの際は、弊社の民泊施設が便利でございます。「CEDAR FOREST」の他にも、目的に合わせて個性的な民泊があるので、PIKAICHI Privatestay series をよろしくお願いします。それから、もしよかったら人気ランキングのボタンをポチッとお願いします 🙇

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